2026年3月8日
何故、心に疑うのか
【聖書箇所】ルカによる福音書 24:38
「そこでイエスが言われた。『なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。』」
信ずるには無条件の飛躍が必要だ。信仰は冒険である。人は誰でも自分の考えの枠の中に縛られている。その枠に当てはまらないことはまず否定する習慣があるのだ。科学的に証明のできないこと、論理的に説明のできないことは信じないという弱さは現代人だけではない。二千年前のイエスの弟子達も同じであった。
彼らはイエスを救い主と信じ、愛し、イエスと共に歩み、教えを受けてきた。その彼らがイエスの十字架の死を嘆き悲しんでいるところにイエスが現われ、「やすかれ」と言われたのだ。彼らは恐れ驚き、信じることが出来なかった。「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか」。現代人と同じではないか。真にそうである。自分の中にないことは受け付けない習性である。本人は意識していないが、自分の考えは正しいのだという前提の中で生きているからである。この自己中心性なる自我こそ罪そのものなのだ。
二千年前のイエスの弟子達ですらこれが現実である。二千年後になっても人間は同じであろう。宇宙には宇宙の法則、自然には自然の法則があるように、罪と死の法則も歴然とあるのである。そこで神は命には命の法則を新たに与え、罪から救われ永遠の命が得られるようにして下さった。「神はまた人の心に永遠を思う思いを与えられた」(伝道の書3:11)とある。だから人は永遠を夢見、真理を渇望するのである。
それに応えて下さるために神は独り子イエスと十字架を与えて下さった。これは時代を超え、すべての人間にすでに与えられているのである。イエスの十字架がどうしても必要だとわかるのは、自分の罪と戦い苦しみ砕かれた者だけであろう。永遠の世界はわかろうとしてわかる領域ではない。幼な子の如くに信ずる者に開けてくる新世界である。罪により理性も良心も麻痺しているため絶対にわからない。ただ、イエスを信ずる冒険にだけ開かれる。これは神の知恵である。信ずる者となれ!
大谷 唯信 牧師
