開設日:1998年07月05日
更新日:2023年05月28日
牧師:大谷唯信 副牧師:森元國文
住所:〒198-0063 東京都青梅市梅郷 3-904-3
週報メッセージ(2023年5月28日)
救いは罪のドン底から始まる
【聖書箇所】ローマ 7:24
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」
キリストから来る御聖霊は助け主としてこの世に来られ、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)のである。最初の言葉はパウロの正にその最中の叫びである。彼は家柄、地位、能力すべてに於いて優れた者であった。「へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、律法の義については落ち度のない者であった」と断言するのも憚らない自他共に認める実力者であった。その彼が完膚なきまでに砕かれたのである。聖霊は罪の自覚を与えるために、御言葉(律法)の光で良心の中を照らし、さらに救われるようにその良心に福音の光を与えて下さる。人が自分の罪について恵みの福音(救い主イェス・キリスト)を聞いた後、もし彼が喜んでその信仰を受け入れるなら、神はさらに救いを受ける信仰をも与えて下さるのである。信仰は神からの恵みである。パウロはただ自分の罪の深さ、何をしたとかしない等の次元ではなく自分がここに生き、存在していること自体が罪そのもの、根源的なやりようがない、手の出しようがない自分の罪、みじめで醜い自分、このような絶望のドン底であったからこそ彼は自分を超えた絶対他者、「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」としがみついていた自己を手放し、まだ見ぬ絶対他者なる神に全身を投げ出す事が起きたのである。これはキリストが十字架上で全人類の罪を背負い十字架の贖いの死に臨み、完全に神からも捨てられた時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら十字架に於ける神の断罪をしっかりと受け止め、神に全託していく姿と重なるのである。パウロはこの絶望の叫びの後、何の説明もなく、「わたし達の主イェス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」と急変したのは復活のキリストが彼の中に生きたからである。(ガラ 2:19-20)
大谷唯信牧師