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開設日:1998年07月05日

更新日:2020年05月24日

牧師:大谷唯信 副牧師:森元國文

住所:〒198-0063 東京都青梅市梅郷 3-904-3

集会お休みのお知らせ

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、会堂での礼拝を当面は、お休みといたします。集会の再開は、見通しがたった時点でお知らせ致します。

礼拝メッセージ(2020年5月24日)

CSオンライン(2020年5月24日)

CSの子どもたちへ向けての動画配信です。今日は小中高生の毎週のアッセンブリーをイメージしてみました。お家の人に見せてもらって、動画を見ながら、一緒に楽しんで礼拝してくださいね。内容は、
①賛美
②ゲーム
③メッセージ
です。

週報メッセージ(2020年5月24日)

信仰の言葉とせよ

【聖書箇所】申命記 30:14

「この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。」
この言葉とは神の言葉であり、私達に対する約束の言葉である。私達は常に礼拝に於いて、また、聖書を読むごとに神の言葉を聞いているのだ。しかし、読み聞くだけでは何も変わらない。もし、御言葉が「口にあり、また心にあるなら、あなたはこれを行うことができる。」と言うのである。即ち、「心で信じて義とされ、口で告白して救われる・・・」(ローマ人への手紙10:10)のである。「私には出来ない」と言った瞬間、あなたは負けである。人は自分で語る言葉に支配されるからだ。それだけに心の世界では信仰の言葉が大切なのである。失敗を語れば失敗に支配され、不安を口にすればますます不安につつまれる。だから私達は信仰によって、大胆に勝利を宣言しようではないか。多くの人が、何らかの答えを見たり感じたりしないと、信じようとはしない。また、信じられる気になったら、信じようと言って何年も待っている人もいる。信仰は「信じます」と言う意志的判断から始まる事を知ろう。心で信じて口ではっきりと宣言した時、神のいのちが動き出すのである。神は私達が信仰を働かす事を今か今かと待っておられる。神はあなたを救いたいからである。あのローマの百卒長は部下の病気のためにイエスに願った。「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と。心で信じて、口で宣言したのである。イエスは「これほどの信仰は見た事がない」と非常に感心され、「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。「すると、ちょうどその時に僕はいやされた。」(マタイによる福音書8:13)と聖書は語る。この信じた御言葉にこそ神のいのち、神の力なる御聖霊が働いて下さるのである。御言葉を教訓としてではなく、自分の中で「信仰の言葉」にするのだ。その時に主は働かれるのである。

大谷唯信牧師

早天祈祷会メッセージ(2020年5月23日)

【聖書箇所】ペテロの第一の手紙2:1-10

「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ=岩〈石〉)と呼ぶことにする。」(ヨハネ1:42b)
ペテロは信徒の代表として、このみ言を受けた。実に、キリストによって新しく生まれたときから、私たちは石なのである。「生ける石」(4節)であるキリストと歩むなら、自分も生ける石(5節)となる。心の奥底で語られるキリストのみ声によって招かれ、私たちは救われた。だが、私たちは、どうやって神を信じるようになったのか、本当は分からない。ただ、神のみ力は、私たちをその愛によって、造りかえて下さったのである。
「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も、生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」(新共同訳4,5a節)
私たちは、アーメンと答えよう。そのとき、イエス様は、「この岩の上にわたしの教会を建てよう。」と言って下さるのである。「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。」(10節) のである。教会の歩みのために祈りましょう。明日の主日礼拝が、各家庭の礼拝として祝されるようにお祈りください。

森元國文副牧師

祈祷会メッセージ(2020年5月20日)

【聖書箇所】「信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。」(4a節)

「信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。」(4a節)
パウロによって回心者となったギリシア人テトスは、パウロが心から愛する有能な弟子であった。クレテでの伝道活動ののち、教会を形成するために、テトスはそこに残された。テトスに与えられた使命は、残務整理と、組織化されていなかったクレテ教会に長老を立てることだった 。(5節)長老や監督を担う人を選任するに当って、三つの点で非難のない者でなければならなかった。それは、第一に良い家庭を築いていること(6節)、第二に平和で自制する心を持っていること(7,8節)、第三に健全な教理を身につけ、指導することが出来ること(9節)である。そして、これらの内の一つでも欠けているなら、適任とは言えなかったのである。私たちは欠けだらけの者である。家庭内には問題があるし、非の打ち所がない人間でもない。しかも、神のみ心を行うことの出来ない罪人なのである。それでも私たちは、神様を愛する。自分に期待することをやめて、決して変わることのない神様を信じる。私たちにとって、イエス様の十字架の贖いだけが希望なのだ。だから、私たちはイエス様のもとへ行こう。主からはなれず、従おう。そして、私たちが、「御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願…」(ヘブル13:21)おうではないか。教会のリバイバルのために祈りましょう。

森元國文副牧師

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