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開設日:1998年07月05日

更新日:2020年03月29日

3月29日の主日礼拝について

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、2020年3月29日(日)の主日礼拝はお休みと致します。

牧師:大谷唯信 副牧師:森元國文

住所:〒198-0063 東京都青梅市梅郷 3-904-3

信仰は愛による冒険

(コリントⅠ18:25) 大谷唯信牧師

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」

「十字架の言」とは、神が私達を救うために与えて下さった十字架のイエス御自身の事である。「滅び行く者」とは十字架のイエスを信じない者を言う。何故信じることができないのだろう。自分の知恵によってわかろうとしているからである。聖書は「この世は、自分の知恵によっては神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。」と言う。では救われるためにはどうしたらよいのか。「そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救う事とされた」と言われる。これが神の方法なのだ。しかしこの世は知恵を求め、しるしを求める。自分なりに理解し納得したいのだ。ここは信仰に入るための最初のハードルであろう。自分が納得もできない事を、何故受け入れる事ができようか。真面目に、自分に正直に、誠意を尽くしてと思う程、できるわけないと思うのである。もし自分が納得もしないで受け入れるならば、自分に対しても相手に対しても不誠実であり、それこそ偽善であり誤魔化しではないかと思うのだ。では納得して受け入れ、信じたとしよう。それは本当に相手を信じて受け入れたのであろうか。自分の納得したものを納得度に応じて受け入れ、信じただけではないか。とするならば、それは決して相手を信じたのではない。ただ自分の納得に、つまり自分にしがみついているだけである。自分を手放し相手を信頼し、自分を委ねている事にはならない。これは典型的なエゴである。人間関係に於いても真の人間関係は生まれないだろう。今やこの世は「自分なりの正しさ」「自分の納得」という檻の中のねずみのように輪をまわして走っているのだ。自分にとっては結構楽だからである。いつそこから出て来る冒険をするのだろうか。「自分を得ようとする者は失い自分を捨てる者は得るのである」

2020年3月29日の週報から

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