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開設日:1998年07月05日

更新日:2024年07月21日

牧師:大谷唯信 副牧師:森元國文

住所:〒198-0063 東京都青梅市梅郷 3-904-3

週報メッセージ(2024年7月21日)

霊の実体に触れよ

【聖書箇所】Ⅱコリント5:16

「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」

 パウロは肉によってイエスを知った時どうしたのだろう。誰よりも激しくイエスとその弟子達、信者達を迫害し苦しめたのであった。ではどうして迫害をやめそれどころか自らを「キリストの僕」と称し、正に命がけでキリストの福音を宣べ伝える者となったのであろうか。この驚くべき変化は何故起きたのか。それはイエスの外側の肉ではなく内側の霊的実体に触れたからである。イエスは次のように言われた。「神は霊であるから礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)と。神は霊なる命なのだ。だからこれに触れようとする者も霊とまことをもって触れよと言うのである。霊とまことをもってとはどういう事か。あの12年間も病で苦しんでいた貧しい女性が必死になって群衆の中を押し分けてイエスに触れた、その求めた姿に見ることができる。ここでは弟子達をはじめ多くの人が肩を押し合い「押し迫っていた」がイエスに本当に触れた者はこの女性一人以外いなかったのだ。だのに「押し迫っている」多くの人々も自分達はイエスに触れていると思っているのである。私達の教会はこんな事になってはいないだろうか。又、富める青年は群衆の中からイエスの前に飛び出し礼儀正しくひざまずき「永遠の命」を問題にしたのである。何と立派な青年であることか。ところが、イエスが答えると「それは小さい時から守ってきました。」とまるで「そんな事、とうに知っていますよ!」と言うばかりであった。あの「押し迫る者」と同じである。実体なるものを知識で学び知るほどに実体から遠くになっているのである。「この世の論者はどこにいるか。この世は、自分の知恵によって神を認めるには至らなかった」(Ⅰコリント1:21)。ただイエスを信じる信仰のみが霊の目を開いて下さるのである。

大谷唯信牧師