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開設日:1998年07月05日

更新日:2019年09月08日

牧師:大谷唯信 副牧師:森元國文

住所:〒198-0063 東京都青梅市梅郷 3-904-3

イエスを確信する

(ヨハネによる第一の手紙5:1,5) 大谷唯信牧師

「すべてイエスのキリストである事を信じる者は、(新しく)神から生まれた者である。・・・世に勝つものは誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」。

私達クリスチャンはこの世に対して常に勝利者として堂々と生きる事が出来る。だから確信を持って生きようではないか。ところが、それがとても出来ないと思える時がある。あなただけではない。誰もが経験する事である。原因は一つ。自分にしがみついているからだ。駄目な自分、弱い自分、自己中心な自分、罪深い自分、次々に出て来る。きりがない。私が砕かれた時は、自分の特に善きものも含めて存在そのものが罪のかたまりであり、手のひらも、鼻から出る息すらも、真黒く汚れているのが見え、身の毛のよ立つ程に裁きの恐れに身を震わせた時があった。御聖霊の取り扱いを受けると「罪と義と裁きとについて世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)とは本当であった。ここ迄いかない人は少しづつ罪に気づかされるのでそういう自分に心を痛め、「何とかしなければ・・・・」と真面目な人ほど自分にしがみつく。だからどうにもならずその繰り返しとなる。一体どうしたらよいのか。自分から目を離し、十字架のイエスを仰ぎ見るのだ。イエスだけを見よ。ペテロは「私は夜通し働きましたが何も取れませんでした」と現状を認めつつも「しかし、お言葉ですから・・・・」と網を打つ(ルカ5:5)。同じ網を打つのだが全てが違う。絶望の自分から目を離し、イエスの中での行動なのだ。彼が変わったわけではない。信仰による行動である。「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)。私達あけぼの教会は信仰によって確信に生きる集団になろう。自分を手離しイエスを仰ぎ見つつ見言葉をしっかり握る。御聖霊がイエスの命となって私達を支えて下さる経験をしようではないか。

2019年9月8日の週報から

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