週報メッセージ

2024年12月1日

主イエスを仰ぎ見つつ

【聖書箇所】へブル人への手紙 12:2

「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、・・・信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」

 御言葉は個人にではなく教会に与えられている。神は御聖霊を弟子たちに注がれ教会を誕生させ、イエスの十字架の福音とその宣教をこの教会に託された。教会がこの世に主の証人として立てられていくのは、神の御心なのである。私達はこの世にあってどのような時も教会として、キリストのからだとして立つことを覚えよう。
この世はアダム以来、サタンの支配の中にあり、たとえキリスト者になろうとも、肉に働きかけ、罪の奴隷とするため、常に誘惑してくる。その誘いは巧妙でタイミングも抜群に良く、理路整然と合理的なもっともらしい正論を以って語りかける。家族のため、仕事のため、…のためと、あたかも荒野に於けるイエスを誘惑するように優しく、鋭く迫ってくる。
特に主に用いられている人、また、用いられたいと願っている人が狙われるのである。
まだクリスチャンでもない人でも、ただ静観しているだけなら何事もないが、いざ信仰が呼び覚まされて真剣に求めるべきとの思いが出てくると、これは聖霊の導きであるが、その途端、サタンはそうはさせまいと働きかけ、もっともらしく邪魔を入れてくるのである。
サタンは個人は恐れないが、教会は恐れる。私達以上に教会が持つキリストの権威と力を知っているからである。サタンは常に教会から私達を引き離し、個人個人を独りぼっちにさせようと、躍起になっている。まずいろいろな事情で、礼拝や教会の集会に出られないようにする。互いの欠点を探して不信感を起こさせたり、とにかく手段を選ばずに心を乱すのである。
私達はすべての事を個人ではなく教会の出来事、信仰の出来事として取り組もう、というのはこれに打ち勝つためである。信仰の導き手であり、その完成者であるイエスを仰ぎ見るのだ。即ち、この御言葉をもって主に祈り、主の御声に心の耳を傾け、主の御心に聞いてほしいのである。

大谷 唯信 牧師