週報メッセージ

2026年1月25日

パウロの信仰は私の信仰

【聖書箇所】ガラテヤ人への手紙 1:1

「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」

 パウロだからこのような信仰に立っているのだと言ってはならない。彼を捕らえ動かしているのは私達を日々支え導いておられる同じ御聖霊でありイエス・キリストなのである。私達がクリスチャンとなったのも、又、まだクリスチャンではないが、何かを求め、御言葉に共鳴し、自分も何かわからないけど心に確かなものを得たいと言う思いが少しでもあり、現に教会に出席しているとするなら、それはまさしくすでに御聖霊の導きの中にいるのである。即ち、その根拠は私達の思いを超えてイエス・キリストであり神御自身なのである。決して人によってでもなく、また自分でもない。「私は弱いので・・・」と自分の弱さを気にしたり、「もっと強くならなければ・・・」と思いつつそうなれない自分を嘆いている人は意外と多い。それは信仰の根拠を自分に置いているからだ。真面目な人ほど自分を抱え込んでしまう。聖書を読み祈りもする。しかし、目立った効果はない。何故か。それは自分に根拠を置いているからである。もう一度はっきり言うが、あなたの信仰の根拠はあなたではなく十字架のイエスなのだ。あなたは強くても弱くてもどちらでもよい。否、弱い方がよい。自分を頼みとできないからだ。自分の弱さを覚えたら強くしよう等と思わずにそれを認め、もっと徹底して弱くなり死の淵まで落とし込み、実にここからが大切なのだが、信仰によって自分から目を離し、十字架のイエスを仰ぎ見つつ十字架のイエスに自分の全存在をと言う気持ちで自分を投げ出すのである。十字架のイエスと共に死ぬ思いに至る事だ。その瞬間、十字架の死がイエスと共に命に変えられ「湧き上がる泉」となっている自分と出会う時になろう。個人差は多少あるが神によって立てられている事がわかる。パウロの信仰は私の信仰、パウロの確信は私の確信としようではないか。

大谷 唯信 牧師