祈祷会

早天祈祷会メッセージ(2020年7月11日)

【聖書箇所】ピリピ人への手紙1:18-30

幸福に生きることを、人はこの世界に探す。良い妻、良い夫とくらし、子をもうけ、子は素直に育ち、安定した収入があり、家を持ち、自動車を所有して、病気もせず、身内や友人に不幸がない。そんな人生も幸福と言うのかも知れない。また、自分の側に興味を持って、学問に励んだり、文学や芸術に没頭したり、何かを成し遂げることに人生を捧げることを幸福と言う人もいるかも知れない。しかし、…
「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(21節)
クリスチャンとは、霊的に生まれた人のことだ。この霊的な命を、生まれつきに持っているのではない。そして、生まれながらに持っているどんなものからも、造り出すことは不可能なことだ。これは、与えられねばならないものである。
「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれてない人にはこの命がありません。」(Ⅰヨハネ5:11-12 新共同訳)
私たちは、神の命の永遠の中に入れられている。私たちの誰ひとりとして、これを理解することは出来ない。しかし、信じることは出来るのである。「生きることはキリスト」私たちは、ここに真の幸福を見つけるのである。
明日の主日礼拝が、主のみ心に叶うよう祈りましょう。礼拝堂での礼拝、及び、各家庭で捧げられる礼拝が、祝されるようお祈り下さい。

森元國文副牧師

祈祷会メッセージ(2020年7月8日)

【聖書箇所】ヘブル人への手紙 4章

「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(12節)
神のみ言(聖書)が生きているということは、聖書には、神のご人格とみ心が、ありのまま表れているということです。神様が、聖書によって、ご自身のご意志を私たちに伝えていることが本当なら、私たちは、み言を自由に解釈しようということにはなりません。神の言を拡大解釈したり、曲解したりすることはもちろん、信仰は十人十色でよいということも、今は少し違うのではないかと思うのです。確かに、聖書は「信仰は一つ」(エペソ4:5)と語っています。12節によれば、み言は私たちの心や霊、さらに肉体をも切り離すまでに刺しとおして、私たちの内にひそむ心の真実を見抜くと言っています。私たちは、神様の前にどうやってもごまかすことは出来ません。
「この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。」(13b節)
厳しいみ言に、私たちは逃げ場を失います。しかし、14-16節は、私たちを安らがせるのです。
「この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さをを思いやることのできないようなかたではない。…だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(15-16節)
ヘブル書は、裁きの厳しさを明確にすると同時に、救いの確かさを示しているのです。

森元國文副牧師